メッセージ:佐藤将司師(福島第一聖書バプテスト教会)
聖書箇所 イザヤ書27:2〜6
おはようございます。そして、70周年おめでとうございます。今日はこの大切な記念礼拝にお招きいただき、ソレンティノ宣教師のご家族にお会いすることができ、また、お久し振りに皆さんにお会いすることができ、この場所で一緒に礼拝をささげられることを、心から感謝しています。
70周年ということですが、私にとっての北上聖書バプテスト教会は、秋田の十文字町に住んでいた30数年前は“錦秋湖のキャンプ仲間がいる教会”というイメージでした。仙台バプテスト神学校にいた20数年前は“神学生奉仕でお世話になった教会”でした。そして福島の教会に導かれて10数年前の震災以降は“震災を共に乗り越える同志”のように勝手に感じてきました。
特に神学生として、1999年4月〜2000年3月までは本当に本当にお世話になり、迷惑しか掛けていないので、今思えばなんだか恥ずかしいことばかりですが、改めまして本当にありがとうございました。それに懲りずに、今回お呼びいただいて嬉しい限りです。
昨日は懐かしい、だけどすっかりキレイになった牧師館に泊まらせていただき、いろいろなことを思い出していました。神学生は“貧学生”とも言いますが、あの時はいつも帰り際に日曜日の愛餐会の残りのゴハンを持たせていただいて、またロールケーキなどのお土産まで持たせていただいて、心身ともに養っていただいてありがとうございました。
20数年経って、私もいろいろと変わりましたね。えっと…外見も変わりましたが、なんだか歳を取ってか礼拝メッセージも長くなってきて、教会の方は優しいので何も言われていませんが、そのうち孫でも与えられたら、孫はズバッと「おじいちゃんの話、長い!」って言われるんじゃないかと心配しています。今日はあまり長くならないように気をつけたいと思っていますが、一言お祈りして、ご一緒にみことばを見てまいりたいと思います。
—お祈り—
今日はイザヤ書27:2〜6の箇所を「平和の根、祝福の実」というテーマでご一緒に見てまいりたいと思います。今日確認したいことは3つです。一つ目は“主の見守りがある”ということです。今日もご一緒におぼえましょう、夜も昼も決して変わることのない主の見守りがありますから、私たちはその約束をしっかりと握りしめて、この71年目も歩んでまいりましょう。
そして主の見守りをおぼえて、私たちは二つ目、“主と平和を結ぶ”ことを大切にしてまいりたいと思います。主に敵対するのではなくて、主と和を結んで、シャロームを結んで、しっかりと神様につながり続けていたいと思いますね。神様に根を張るならば、私たちは置かれている地にも根を張ることができます。私たちは神様の時の中で、三つ目“根を張り実を結ぶ”ことができるんです。何という幸いでしょうか。私たちは主に導かれ、置かれている地にあって、また、それぞれの遣わされている場所にあって、いよいよ根を張り、芽を出し、花を咲かせ、実を結んでまいりたいと思います。
さて、紀元前700年頃に活躍した有名な預言者イザヤ。預言の預は、預かるという字ですから、その通りに神様から預かったことばを人々に伝え、このイザヤ書の中にたくさん書き留めました。聖書の預言はいつも、いくつもの山を重ねるように同時に見ているような感じなので、そのことばは、その当時に生きる人々への神様からのメッセージでもあり、また、後の時代に生きる人々、現代に生きる私たちへのメッセージでもあるんです。さらには将来起こる出来事についてのメッセージでもありました。
ですから、今日の箇所にも出てくる“その日”ということばは、“終わりの日”や“さばきの日”、“イスラエルを救われる恵みの日”、“勝利の日”、“実りの日”などなど、いろいろな意味が含まれている“その日”なんですね。
では今日の箇所、せっかくですから2節をご一緒に読んでみましょうか。
27:2 「その日、麗しいぶどう畑について歌え。」
さぁ、その日、終わりの日、恵みの日、実りの日、麗しいぶどう畑について歌えと、神様は語られました。神様は同じイザヤ書5章などでも、人々をぶどう畑と表現し、そしてご自分はそれを見守る者、水を注いだりしながら世話をする者として、そのメッセージを語っておられるんです。しかも今読んだ2節では、“麗しい”ぶどう畑ですから、神様がどんな思いで人々を見つめておられるかが伝わってきますね。
人々はぶどう畑。私たちはぶどう畑。主はどうでしょうか。続く3節も読みましょう。
27:3 わたし、【主】はそれを見守る者。絶えずこれに水を注ぎ、だれも害を加えないように、夜も昼もこれを見守る。
そうなんです。なんと幸いなことでしょうね。主はそれを見守る者であると言ってくださっているんです。どんなふうにして見守るんですか?絶えずこれに水を注いでいるんだと。絶えずですよ。いつでもどこでもどんな時でも、私たちが渇いてしまうことがないように、私たちに水を注ぎ、私たちにあふれんばかりの愛を注いでくださっているのではないでしょうか。そして、だれもそのぶどう畑に害を加えないようにと、夜も昼も、決して見放さず、決して見捨てず、まどろむことも眠ることもなく、見守ってくださっているお方なのではないでしょうか。
先程もチラッと言いましたが、イザヤ書5:2にはこのように書かれています。
5:2 彼はそこを掘り起こして、石を除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、その中にぶどうの踏み場まで掘り、ぶどうがなるのを心待ちにしていた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
神様はこの時もイスラエルの人々を、永遠の愛を持って深く愛しておられて、その畑を掘り起こしたり、石を取り除いたり、良いぶどうを植えて、やぐらまで立てて、ぶどうの踏み場まで掘って、手をかけて、愛を注いで、絶えず見守って、ぶどうがなるのを心待ちにしていたんです。ところが、イスラエルの人々が結んだのは、酸いぶどうだったというんです。彼らはこんなにも神様に愛されているのに、こんなにも見つめられているのに、自分勝手なことばっかりして、神様に背を向けて、神様という的を外して歩んでしまっていたんです。
福島にある我が家の庭には、一本のブルーベリーの木が植わっているんですが、私は時々忘れてしまうけれど水を注ぎ、雑草を取り除き、年に3回肥料を与え、やっぱり実がなるのを心待ちにします。それなのにもし酸っぱい実ができてしまったら、やっぱりガッカリしてしまうと思います。
神様はぶどう畑を見守る者として、決して忘れたりなんかしないで絶えず水を注ぎ、夜も昼も見守り、手を掛け、愛情を注ぎ、実がなるのを心待ちにしておられた。しかし、酸いぶどうができてしまった…。今日は読みませんが、この5章の続きに書かれているのは、神様はそんな人々の姿にガッカリしてしまって、そして憤りをもおぼえたんです。
しかし今日の箇所27章、その日、終わりの日、神様の恵みの日、4節を見るならば、神様にもう憤りはないとおっしゃってくださるんです。それでは、4節も読みましょう。
27:4 わたしにもう憤りはない。もしも、茨とおどろがわたしと戦えば、わたしはそれを踏みつぶし、それをみな焼き払う。
神様は言われました。わたしにもう憤りはない。たとえ茨とおどろ、やぶが邪魔してこようとも、戦いを挑んでこようとも、神様はそれを踏みつぶし、みな焼き払い、真実の愛を尽くし続けてくださる。神様は夜も昼も見守ってくださっているんです。
さぁ、何と幸いなことでしょうか。確かに私たちの主は永遠の愛を持って私たちを愛し、そのご真実さのゆえに愛を注ぎ続けてくださっています。決して見捨てることなく、見放すことなく、絶えず水を注ぎ、夜も昼も見守ってくださっています。神様ご自身が私たちの主として、私たち一人一人を導き、この教会の歩みを導き続けてくださっているのではないでしょうか。私たちは改めて、心から感謝と賛美をおささげしたいと思いますね。
このことについては、今日は何もことばを加える必要がないですね。この北上聖書バプテスト教会の70年を振り返る時に、私たちは確かに“主の見守りがある”、アーメンと告白させられるのではないでしょうか。私たち家族も今日ここに同席させていただいて、本当に幸いです。北上教会の70年の歩みを様々見聞きしながら、感謝と感動をおぼえます。
珊瑚橋が見える小さな診療所から始まったという教会の歩み。診療所と伝道所の両輪で、ソレンティノ宣教師や看護師として奉仕されたピーズ先生方が、どれだけ汗と涙を流し、この地を愛し、人々を愛し歩まれたことでしょうか。やがて、ホレチェク宣教師がこの地で10年以上、奥様を天に見送ろうとも留まり、そして牧師先生方や多くの先輩方の信仰と祈りが、たくさんの愛が、この教会にはどれだけ詰まっていることでしょうか。
その70年の歩みに、一本の太い柱のようにビシッと貫かれているのは、神様の愛ですね。70年という長い歩みには、山もあれば谷もあったと思います。様々な困難の中を通らされることもあったことと思います。しかし、神様ご自身がこの教会を愛し、この北上の地を愛し、お一人お一人を愛し、絶えず水を注ぎ、だれも害を加えないように、夜も昼も見守ってくださっていたのではないでしょうか。たとえ茨やおどろが戦いを挑んでこようとも、神様はそれを踏みつぶし、焼き払い、守り、導き続けてくださっているのではないでしょうか。いかがでしょうか。神様は北上聖書バプテスト教会に、皆さんお一人お一人に関心を持ち、夜も昼も見守り、大いに期待し、導いてくださっているお方なんですね。
そこで大切なのは、5節です。では、5節もご一緒にお読みしましょう。
27:5 あるいは、もしわたしという砦に頼りたければ、わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい。
夜も昼も変わることのない主の見守りの中で、私たちが酸っぱい実ではなく、甘くて良いたくさんの実を結ぶためには、時に茨やおどろが邪魔しようとすることもあるかもしれないけれども、それらを神様に焼き払っていただいて、そしてそこで神様という砦に頼ることではないでしょうか。
神様ご自身が私たちの頼るべき砦ですね。1ページ前にめくってイザヤ書25:4にはこのように書かれています。
25:4 あなたは弱っている者の砦、貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、暑さを避ける陰となられました。
そうなんです、神様ご自身が、弱っている者の砦となり、苦しみの時にも、嵐の時にも、暑さの時にも、私たちがどんな時にも身を避け、頼るべき砦なんですね。さぁ、皆さんは何を自分の砦としているでしょうか。27:5にあるように、神様という砦に頼るために、神様が招いてくださっています。「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい」と。
この“和”ということばは、“シャローム”ですね。神様とシャロームを結ぶ。神様と平和を結ぶ。つまりは神様に対して正しい姿勢をとり、ただ神様に寄り頼むということ。神様とシャロームを結び、神様に信頼を置くということです。神様を第一とし、神様から離れないということ。「自分が自分が…」と自己中心になりやすい私たちですけれども、もはや神様に敵対することをやめ、心の王座を明け渡すということではないでしょうか。
イエス様も、「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。・・・わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです」と言われましたね。イエス様から離れてしまうことのないように、しっかりと主と平和を結び、主に根を張りたいと思いますね。
またイエス様は、有名な箇所ですが、マタイの福音書6:33ではこのように言っていますね。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」
私たちが第一とすべきことを第一とし、神様を信じ、愛するならば。神様に敵対することをやめ、神様に心の王座を明け渡し、主と平和を結ぶならば、私たちを絶えず見守る神様が、私たちに祝福の実を結ばせてくださるのではないでしょうか。
「さぁ、私たちは「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい」と招いてくださっている主の御声に耳を傾け続け、主と平和を結び、平和の根を張り、かたく強く結びつけられて歩んでまいりたいと思います。
私は、神学校の4年生の時に、この教会で奉仕させていただいた一年間は、私の人生の宝物の一つであると、今も心から感謝しています。私はこの教会の、皆さんの姿から本当に多くのことを、大切なことを学びました。
その時、北上教会は牧師がいない無牧の期間でした。牧師がいないというその緊急事態に、きっと、当時私にはわからなかった、多くの労苦や涙があったのではないかと思います。しかし皆さんは、執事・役員の方々をはじめ、教会員の方々が全員で一致して、祈りつつ、乗り越えておられました。大切にすべきことを大切にして、何はなくとも心から神様への礼拝をささげ続け、まさに、「まず神の国と神の義を求めなさい」というそのことを大切にしておられました。
田舎の…と言ったら失礼ですが、純朴な、本当の家族のようなあたたかく、愛にあふれた交わり。私もその交わりに加えていただいて、その真ん中に神様がおられることが豊かに感じられる、そんな一年間でした。
まず神の国と神の義を求め、礼拝を大切にし、神様と平和を結び続ける。そんな信仰の基本、教会が教会であり続けるための基礎を見せていただいた者として、私もそのように歩んでいきたい。いつも北上教会の皆さんの姿を思い起こす時にも、そう感じています。
折りしも今日はペンテコステですね。ペンテコステは教会の誕生日とも言われていますが、ペンテコステのこの日に70周年の節目をおぼえて礼拝をおささげできるのは、神様の恵みだと思います。教会が決していのちを失ってしまうことがないように、いつもご聖霊なる神様が風のように自由に行き巡る、そんな主との平和が結ばれた教会であり続けたいですね。
いかがでしょうか、この71年目も、そして80年目も100年目も、「わたしと和を結ぶがよい。和をわたしと結ぶがよい」と招いてくださっている主の御声に耳を傾け続け、主と平和を結び、平和の根を主に張って、主との生きた関係に深く強く結びつけられて歩み続けることができるならば、本当に幸いですね。
さて、神様との関係が第一とされ、強められていく時に、私たちは神様の時の中で、それぞれ置かれた場所で根を張り、芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶことができるのではないでしょうか。今日の箇所6節をご一緒に読んでみましょう。
27:6 時が来れば、ヤコブは根を張り、イスラエルは芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。」
ここまで今日の箇所を読み進めてきて、いかがでしょうか。私たち一人一人のこれまでの歩みを振り返る時にも、この北上聖書バプテスト教会の歩みを思い巡らす時にも、確かに私たちは、私たちを見守ってくださっている神様が、その都度その都度困難を乗り越えさせ、絶えず水を注ぎ、夜も昼も見守ってくださったので、茨もおどろも取り除いてくださったので、ここまで来ることができたのではないでしょうか。今あるはただただ主の恵みのゆえではないでしょうか。
ならば、私たちも主とシャロームを結びましょう。神様という砦に信頼を置き続けましょう。第一とすべきことを第一として、礼拝を大切にして、神様と和を結び、かたく強く結び合わされてまいりましょう。そうするならば、時が来れば、根を張り、芽を出し、花を咲かせ、実を結ぶことができるのではないでしょうか。
いかがでしょうか、私たち一人一人、そしてこの北上聖書バプテスト教会、神様の眼差しの中で、今は根を下へ下へと張っているところでしょうか。芽を出し始めたところでしょうか。美しい花が咲き始めたところでしょうか。これまでどれだけたくさんの実を結んできたことでしょうか。そしてこれからも神様が、神様の時の中で、お一人お一人を用いてくださり、成長させ、豊かな実を結ばせ、そしてそれが全世界に満ち溢れるような、そんな祝福の実を見せていただきたいと思いますね。
詩篇1:2、3にはこのように書かれていますね。根を張り、実を結ぶ人とはどのような人でしょうか。
1:2 【主】のおしえを喜びとし 昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える。
私たちも主と平和を結びましょう。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさみながら平和の根を張り、神様の時の中で実を結んでまいりたいと思います。
今日の箇所のちょっと後ろ、イザヤ書37:31、せっかくなので読んでみましょう。
37:31 ユダの家の中の逃れの者、残された者は、下に根を張り、上に実を結ぶ。
さぁ、私たちは、主に平和の根を張り、かたく強くつながれて、栄養をしっかりとたくわえましょう。そうする時に、この地にあって、また、それぞれが遣わされ、置かれた場所にあって、下に根を張り、上に実を結んでいくことができるのではないでしょうか。
私たちの福島第一聖書バプテスト教会は、今年宣教開始75周年を迎えました。ホレチェク宣教師が中国への道が閉ざされて日本へ、そして福島県の浜通りの田舎・大野村、今の大熊町に、船に揺られてやって来てくださいました。最初は畳に驚き、せんべい布団に驚き、糸を引く腐ったような豆に驚かれたそうですね。そして言葉も文化も違う田舎の村で、どんなにご苦労なさったことかと思います。
75年前に宣教が開始された大熊町の大野チャペルは、福島第一原子力発電所から5キロのところなので、東日本大震災による原発事故の後、立ち入り禁止になり使うことができなくなってしまいました。しかし、ちょうど一年前に規制が解除されて、今は月に一度ですが、また礼拝をおささげすることができるようになりました。
その礼拝に、いつの頃からか一人の壮年男性が「私はクリスチャンになりません」と言いながら、毎月来てくださるようになったんです。先月の礼拝の時、この小さな本を持って来てくださいました。見てみると、古い文語訳の新約聖書、それもアメリカで印刷された聖書でした。
聞くと、その方のご両親は、74年前、第一回目のバプテスマ式でバプテスマを受けられ、そして教会で結婚式を挙げられたとのこと。そう、この聖書はその方のお父様がホレチェク宣教師から受け取った聖書だと言うんです。きっとホレチェク宣教師がアメリカから大切に運んで来て、人々に福音を伝え、祈りつつ聖書を手渡し、そしてそのお父様は救いに導かれた。本棚で長いこと眠っていたその聖書が、やがてその息子さんの手に取られ、今息子さんが教会に足を運び始めてくださっている。ホレチェク宣教師がこの光景をご覧になられたら、どんなに喜ばれていることかと、私は思わずにはいられません。
神様のご計画は、本当に長くて広くて深くて、測り知ることができませんね。みことばの通りに、時が来れば、根を張り、芽を出し、花を咲かせ、世界の面を実で満たす。そんな神様のご計画の、ほんの一端でも、私たちがそこに携わり、また見せていただけるとは、何という幸いでしょうか。
私の神学生奉仕時代の思い出をもう一つお話させていただくならば、私はこの教会でギターの練習を始めて、そして少しですが弾くことができるようになったんです。奉仕に来て何をしてたの?と思われるかもしれませんが、実は必要に迫られて練習を始めたんです。
その時の私の奉仕の一つは、月に一度、土曜日のお昼に菊地千代子姉と一緒に車で20分くらい移動して、遠藤風子姉と合流して、更木という地区の公民館を使っての「更木こども会」のお手伝いをさせていただきました。実はその子ども会の名前が思い出せなくて、先日菊地家に電話して確認したのでした。
10数年くらいでしょうか、続いたというその子ども会には、なかなかの田舎でしたが、たくさんの子どもたちが集まり、いつもほのぼのとした時間が流れ、そしてアカペラで歌う賛美は、ある時は音程が低く、ある時は高過ぎて声が出なくなる。そこで…と、私はギターを練習し始めて、そこで賛美の伴奏をしたのでした。
あの時の子どもたち、申し訳ないことに名前は忘れてしまいましたが、今みんな30歳くらいになっているでしょうか。連絡も取れないし、どこにいるのかもわかりませんけれども、決して蒔いた種は無駄にならず、神様が用いてくださると信じています。
数年前、宮城県のある教会にメッセージ奉仕のために行ってきました。その礼拝の後、ある一人の女性が話し掛けて来られ、『もしかして、佐藤哲男先生の息子さんですか?』と言われたんです。福島に行ってから、「佐藤彰先生の息子さんですか?」と聞かれることが多かったので、ついついいつものように「いえいえ違います。たまたま名字が一緒なだけです…」と答えそうになりましたが、あっそうだ、私は佐藤哲男の息子だった、危ない危ないと思って、『そうです。三番目です。』と答えました。すると、「うわぁ!やっぱり!」と、とても喜んでくださったんです。
なんでも、その方は秋田県の横手出身で、小学生の頃ひょんなことから近くの父が牧師をしていた教会の教会学校に行くようになったんだと。哲男先生もとても優しく、奥様の手作りお菓子も美味しかったし、そこにコチャコチャいた哲男先生のお子さん方も可愛かった。良い思い出がたくさん残っている。しかし、その時は2〜3年位で教会に行くのを止めてしまった。というような話でした。
そしてその後、大人になってから導かれてクリスチャンになり、今は教会で執事をしている。かつて子どもの頃横手教会に通っていた自分がクリスチャンになったことを哲男先生ご夫妻に伝えたくて、今どこにいるのか捜したが、行方を知ることができず残念に思っていた。そんな中で、今回メッセージに来られた佐藤先生は、メッセージ前の紹介によると、秋田県の横手生まれらしい。牧師家庭に生まれたらしい。声を聞くとなんとなく哲男先生に似ている。前に立った姿を見てみるとやっぱりなんとなく哲男先生に似ている…。
そう思って礼拝後に私のところに来てくださって「佐藤哲男先生の息子さんですか?」と聞いてこられたのでした。本当に不思議な出会いに驚き、鳥肌が立ったと言っていました。確かに、もし私がその教会に行かなければ…。もし『横手生まれ』という紹介がなければ…。もし私が父と似てなければ…!?何もかもが、神様からの大きなサプライズであることに、お互いに感動を覚えました。そして両親に「私はクリスチャンになりました。あの時は本当にお世話になりました。」というその伝言を伝えると、両親もとても喜んでいたのでした。
私も自分が牧師になってみて、田舎で伝道することの苦労。種を蒔いても無駄に思えてしまう寂しさ。なかなか人が定着しないもどかしさ。等々、いろいろなことを感じていました。しかしその時、私はそんな体験をしながら、神様ってすごいお方だなぁとやっぱり思いました。すべてのことに神様の時があること。蒔いた福音の種が、人間の目には無駄になったと思えてしまうこともあるけれども、神様がそれを必ず用いてくださること。私は、時に自分の無力さを感じて落ち込んでしまったりすることもありますが、なんだか改めて神様から大切にすべきことを大切にしなさいと、背中を押されたように感じました。
私たちの神様は本当に不思議で、偉大なお方ですね。私たちは神様のために何もすることはできないかもしれないけれど、神様は私たちを通して何でもすることができるお方です。時が来たら、根を張り、芽を出し、キレイな花を咲かせ、豊かな実で世界の面を満たしてくださるお方です。この北上の地にあって、これからもこの北上聖書バプテスト教会が神様に豊かに用いられていくことを、私はこれからもワクワクして祈ってまいります。
さて、今日は70周年記念礼拝にて、イザヤ書27章からご一緒にみことばを見ることができました。今日確認したかったことは3つです。主は絶えず水を注ぎ、夜も昼も決して変わることなく私たちを見守ってくださっています。ですから、私たちはその約束をしっかりと握りしめて、これまでの導きに感謝しつつ、これからも平安の内に歩んでまいりましょう。
そして主の見守りをおぼえて、私たちも応答しましょう。私たちは主と平和を結び続けてまいりたいと思います。主に敵対するのではなくて、主と和を結んで、シャロームを結んで、しっかりと神様につながり続けていたいと思いますね。
そうするならば、私たちは神様の時の中で根を張り実を結ぶことができます。何という幸いでしょうか。北上聖書バプテスト教会が、神様の長くて広くて深いご計画の中で導かれ、置かれているこの地にあって、いよいよ根を張り、芽を出し、花を咲かせ、祝福の実を結んでいく、そんな71年目の歩みの祝福を期待して、いよいよ一つになり歩んでまいりましょう。